オンラインショップが移転しました!新しいアドレスは・・・ http://www.realarts.org/onlineshop/top.html
ホーム コラム#2:神田晋一郎

ミュージシャンインタビューや、あるCDをテーマとした座談会など多彩な内容でお送りするBishop コラムのページです。

Bishopコラム 第2回 update: February 2005

神田晋一郎インタビュー 
(インタビュアー:谷川卓生)

<神田晋一郎>
1976年生まれ。ピアニスト、作曲家。2000年より音楽ユニット「音樂美學」を主宰。即興演奏とそれを制御するための作曲を試みている。2001年よりEIAS-J に参加、国内外で即興演奏のコンサートを行なっている。CD作品に『音樂美學』(Bishop Records, EXJP008)、『神田晋一郎 音樂美學 / 皮膚のトポロジー』(同EXJP013) など。

* * * * *
「音樂美學」は、作曲家・ピアニストの神田晋一郎による“即興演奏とそれを制御するための作曲の試み”である。神田晋一郎はこれまで、作曲家としても即興演奏家としても既成のスタイルに収斂しきれない独自のスタンスで活動してきた。その音楽的な成果については最新作の『皮膚のトポロジー』(exjp013)を聴いていただくこととして、このインタヴューでは彼の「もうひとつの顔」ともいうべき多ジャンル性と「音樂美學」がどういう位置関係・距離にあるのかというところからスタートし、彼のなかでの音楽のあり方を多角的に検証していきたい。

神田さんは幼少よりクラシックピアノを学び、その後ジャズを始め様々なジャンルにもアプローチして多彩なスタイルを演奏することができますが、そういったスタイルを踏襲しない、自身の表現として音楽を求め始めたのはいつごろでしょうか?またそのきっかけは何だったのでしょうか?

□何かの「ジャンル」を学ぶことは、いわばそのジャンルの物差しを身に付け、その目盛りで身体を切断することでしょう。純粋であろうとすればするほど外部のない閉域となりかねない。実際、外部を知りつつあるいは認めつつも、それを無視するかあるいは視野の片隅に追いやることによって、所属する価値観のもとに安住する。クラシック演奏家一人一人の音楽に対する意識の持ち方や、コンクールや大学のあり方にはこの傾向がよく表れていると思います。この傾向は音楽のみならず文学にも経済学にも、あらゆる分野において当たり前のように見られるのですが、クラシック音楽のように権威と結びついた音楽の場合はそれが特に顕著になるのだと言えるでしょう。一方ジャズ系の演奏家の場合は、ビバップ原理主義者のような人たちも勿論いるようですが、一応多ジャンル性は指摘できます。しかし、ここでの多ジャンル性はビバップ、モード、ファンク、フュージョン、ボッサその他ラテン系などの「すでにそこにある価値観」の物差し・マニュアルを器用にコレクションして使い分けるかあるいは安易なブレンドをしているに過ぎず、この多ジャンル性がむしろ「相対化」の錯覚をもたらしている。ここまでを大雑把にまとめると、「共同体の閉域に安住する」 「マニエリスム」という2つの問題が浮かび上がると思います。 この2つはいわば「甘い罠」なのですが、アーティストはこのいずれをも退けるべきです。このように考えるようになったのは、大学3〜4年生の頃だったと思います。この頃は現代音楽やジャズ等を勉強していて、すでにジャズピアニストとして活動していました。しかし、幾つもの物差しとそれへの追求のあり方が、静止したイデアへの主体の接近というような形而上学を思わせ、それらのジャンルをブレンドすることもアイデンティティーの問題をゴマかし、ないがしろにしている感じがしてならなかった。そうして、そういったスタイルとは違ったアプローチで音楽することを考えるようになったのです。

■コンサートは主に神田晋一郎名義ではなく音樂美學として行っていますが、それは何故でしょうか?音樂美學として定めるアイデンティティーがあれば教えていただけますか?
 
□「音樂美學」は既にある幾多の価値観の内部から出来るだけ逃げ、私の主観的な音楽世界を実現するためのプロジェクトですが、音樂美學という名が私自身を指すこともあるし、作曲者名を音樂美學と書くこともあります。固定されたメンバーの為のユニット名ではなく、メンバーはその時の目指すサウンドによって変わります。音樂美學では即興演奏を制御するための作曲を行なっているのですが、私がそのコンセプトで作曲した作品を演奏するときは名義を「音樂美學」としています。私はExias-Jでも即興演奏することがあるので、自分のなかで明確に区別するためにもこの音樂美學の名義でやっています。 

■通常、芸術家は自分に影響を与えた先駆的アーティストの世界、もしくは古典や既存のスタイルといった物と自分の感性にズレを感じ、そのズレを埋めるべく求めた表現追求が結果として自身の世界になっていく事が多いです。神田さんには音楽へのアプローチや感性に特に高橋悠治の影響を強く感じますが、彼からの影響はあり、またそこにズレの様なものを感じたのでしょうか?
 
□まず、「ズレを埋めるべく求めた表現追求が結果として自身の世界になっていく」というのは、私には当てはまらないと思います。先述のとおり、そういう追求の仕方をしない、ということから音樂美學は始まっているので。高橋悠治については、いろいろなものの考え方や対象との距離のとり方、作品やピアノ演奏などに非常に刺激を受けますが、彼の音楽と私の音楽とは、聴いた感じもずいぶん違うと思いますがどうでしょうか。ただ、即興を制御するためのスコアの書き方は、ジョン・ケージの作品等とともに参考にしたことがあります。

■1枚目の「音樂美學」とは異なる曲、響きというのはもちろんですが、今回の「皮膚のトポロジー」でそれ以上に特に意識した事は何かありますか?

□私は今まで、いろいろな音楽をやってきましたが、そういった諸々の価値観を相対化したい、というのはありました。
ここで私が言っている相対化という言葉の持つ意味は、「既成の様式・価値観の内部が同時に外部であるような相対化」ということです。それはあえて端的に言えば、様式や方法や身体による制御を否定するという意味ではなく、むしろそれを利用しながらそれらの外部に身を置くということに近い。なにかに相対(あいたい)するものの提示という側面はもちろんあるが、それはあまり本質的なことでない。その点を強調する受け取られ方をされることがありますがそれは誤解が根底にあると思われます。即興演奏の用語で語ることは可能だ、だが即興演奏そのものではない。ということが大事です。ある価値観を相対化する、というのはそういうことです。この即興演奏という言葉をさらに現代音楽・音響・ジャズ等と置きかえて、エリアを拡大します。例えばピアソラはタンゴの人たちには「あれはジャズだ」といわれ、ジャズの人たちには「あれは現代音楽だ」といわれ、現代音楽の人たちには「あれはタンゴだ」といわれ、それゆえにあらゆる用語で語られることをゆるしながら常に異端であったわけで、内部にいながら同時に外部であるということのかんたんな良い例であると思います。ただし、ここでの「相対化」は、『あらゆる価値のエッセンスをコレクションすること』ではありません。それはマニエリズムの一形態であるとして退けます。

■音樂美學の最新作「皮膚のトポロジー」には、それぞれの曲の性格や配置といった大きな枠においても、一曲の中の構成と音の配置といった事にも何か強い意図というものを感じます。ただ、それらがどういう意図を持って配置されているのかを読み取るのが難しい、いわば難解なパズルを解くような感覚を持つのですが。
 
□録音が終了した後の印象は、随分とポップなものになったな、と。あのアルバムが難しいというリスナーは多いですが、それはとても意外な感じがします。かなり深い、難しい解釈をすることも可能なようにつくってある、というか結果的にそうなったのですが、それを抜きにして普通に音楽を聴いて普通に楽しめると思うのですが。ケージの作品は気軽に聴けるようなものが多いでしょう。そういう聴き方もできる、ポップな作品になったと思っています。それぞれの曲はなるべく物語性を持たないように、ただ通り過ぎていく音楽を考えましたが、アルバム全体ではほのかに構成的な側面も持たせています。 

■もう一つ感じるのは、即興音楽といえるほど即興のハプニング性やダイナミクスを意識している、とはいっても即興というにはあまりにも作曲といえる要素が強い。ならば響きからいっても手法からいっても、いわゆるクラシックの現代音楽といえなくもない。ただ、万人が演奏することを想定している現代クラシックにおいては即興パートを取り入れ、それを不慣れなクラシック演奏家に強いた結果、あまり良い結果を残していないのに対し、音楽美學は明らかにニュアンスだけでなく、選び発した音や呼吸、間といったものにも演奏家の個性を感じるし、インタープレイの緊張感は即興演奏家のものです。作品を作る段階ですでに演奏家の技量と個性やそこから生まれるハプニング性を想定しているのでしょうか?

□「即興演奏を制御する」ための作曲ですから、当然即興演奏が大部分を占めています。細部まで制御し切るわけではありませんから、演奏家の個性や演奏のハプニング性は想定しています。逆に、そうでないならあまり即興演奏を作曲に取り入れる必要もないでしょう。ある程度の譜面のようなものがあるので、誰でも演奏しようと思えばできます(もっとも、出版するつもりはまるでないしそんな機会もないでしょうが)。そういう想定はしていませんが。話は逸れますが、今の質問の中にあるように、即興演奏でありながら即興演奏そのものではない、作曲でありながら所謂作曲そのものではない、現代音楽でありながら現代音楽そのものではない。先ほど説明した内部が同時に外部であるような相対化、というのはこういうことです。

■なるほど、よくわかります。では完全な即興の曲はこのアルバムにはありますか?あればそこに完全即興を入れたのには何か理由がありますか?

□私と河崎純のデュオ「脳」と則包桜を加えた「皮膚のトポロジー」がそうですが、「皮膚〜」は冒頭が河崎・桜デュオから始まる、ということだけ決めていました。結果、「皮膚〜」はもっとも物語性の強い演奏になりましたね。なぜか3部形式のような・・・・メンバーはみな即興演奏が得意なので、この3人での即興演奏を残しておきたかった、というのもあります。

■演奏する事、作曲する事を含めてそれら音楽的行為を自分に行わせている原動力、意識とはどういったものでしょう?例えばエンターテイナーが"人を喜ばせることが好きだから"というような意味合いなんですが。
 
□音楽が好きだからやっている。・・・としか言えないなあ。
こういう質問はロマンティシズムが絡むから、答えるのがちょっと恥ずかしいです(^^ゞ 
 
■確かに(笑)。では最後に今後の活動予定をお願いします。また他に進行中のプロジェクトがあれば聞かせてください。
 
□せっかくCDを出したばかりなんだけれども、純粋な「音樂美學」のライヴの予定は当分ありません。ただし「音樂美學×西洋音樂」シリーズは何度か行なう予定です。次回は第三回になりますが、4月9日の土曜日、渋谷の公園通りクラシックスにて、ピアニスト藤拓弘とともにクラシックなどをデュオでやります。このコンサートでは「音樂美學」の新作もやりますが、河崎純の新作も要注目です(河崎純・小阪亜矢子特別出演)。次回のCDですが、ヴァイオリンの外村京子との録音になる予定です。こちらはだいぶ前から企画があったのですがなかなか作業が遅々として進まず、お待たせしておりますが。
 
■今後も様々なアプローチを展開していくことを楽しみにしています。今日はありがとうございました。
 
《神田晋一郎 ディスコグラフィー》
  Powered by おちゃのこネット
ホームページ作成とショッピングカート付きネットショップ開業サービス