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ミュージシャンインタビューや、あるCDをテーマとした座談会など多彩な内容でお送りするBishop コラムのページです。 Bishopコラム 第5回 update: May 2005 青木菜穂子インタビュー 〈青木菜穂子〉 * * * * * (タンゴとの出会い) I:どのような切掛でタンゴを始めたんですか? A:タンゴを選んでいくまでの流れというものがあって、私の場合は、クラシックで(武蔵野)音大に行って、そこでジャズが好きになって、ピアソラを聴いて、そのままタンゴに入っていってしまったという、とても自然な流れでタンゴに辿り着いたという感じでした。 T:「ジャズ研」って、早稲田のモダンジャズ研究会ですか?それって、何年ぐらいですか? A:はい、そうです。たまたま私のやっていた人たちが寛容だったので(笑)。河崎さん(* 河崎純:コントラバス奏者)と会ったのもそこでです。今から8〜9年前ぐらい(*1996〜97年ごろ)ですね。 T:僕も大学時代はジャズ研にいた事があるんですけど、僕の先輩でピアソラが好きな先輩がいました。ピアソラって、ゲイリー・バートン(* ジャズの有名なビブラフォン奏者)とかと共演してたりするじゃないですか。ブームになる前のピアソラは、日本ではジャズのマニアックなファンが聴いていた音楽なのかも知れないですよね。 A:それはありますよね。早稲田のモダンジャズ研究会の隣りがたまたまタンゴ研究会だったんですよ。隣同士なのにほとんど交流がなかったようですが(笑)。タンゴ研究会は本当に古典のタンゴを演奏していたようですが、ジャズ研ではピアソラとかモサリーニとかを演奏していました。私達の時代だけかも知れませんが、ジャズ研では何故かピアソラが流行っていたんです。当時、D.ビネリとアグリがちょっと面白いことをやっているCD(*『memoria & tango』(melopea)の事か?)があったりして、それなんかはコピーしてましたね。モサリーニがフランスに行ってからやっている事なんかは、ジャズに通ずるところもあるんですよね。 I:私も最初はピアソラ聴いてから好きになって、共演者が欲しいのでホームページとかを探していたら亮太君(* 小松亮太、ピアソラブーム以降の日本のバンドネオン奏者としては恐らく最も有名)のところに呼ばれたという経緯だったので、最初から亮太君のところで始めたんですよね。 A:そうそう、そうでしたよね。憶えています。 * * * * * K:その後、どのように活動を展開していったのですか? A:音大を卒業してからは、会田さんに手伝ってもらったりしながらライブを続けつつ、生活のためにホテルやレストランでピアノを弾いたりしていてはいたんですが、私の先生に紹介していただいて、その後すぐに盛岡に行っちゃったんですよね。東北に「アンサンブル」というタンゴのお店があって、そこで演奏させていただける話があったのです。 T:伝説のお店ですよね。 A、I:へえ、そうなんだ(笑) T:だって、熊田さん(* 熊田洋:小松亮太のバンドのレギュラーピアニスト)なんかも10年ぐらいやってましたよね。 I:そうそう。なんでタンゴは盛岡なんでしょうね(笑)。 A:そう、それでタンゴ発祥の地であるアルゼンチン所の町や人を知りたいという欲求があって、そのままアルゼンチンに行きました。「一体どういう所でやっているんだろう」という好奇心ですね。 I:でも、潔かったですよね。「私、行くから」なんて急に宣言して(笑)。 A:また東京で仕事を探すという気にもなれなかったし、それよりも勉強をしたいという欲求の方が大きかったんですよ。盛岡に行く前に東京で働いていたときは、勉強をしたいんだけど仕事のための練習とかばかりになってしまって。東京ってとても大きいから移動も大変だし、夜に仕事があると練習が出来ない日が多くなってしまうんですよ。それが盛岡に行った時には、盛岡も都市ではあるんですけど東京に比べると小さいから、夜に仕事でも昼間に練習時間が作れたんですよ。そんな感じで、どんどんタンゴに嵌まっていってしまって、もっと勉強したいという気持ちになっていったんです。スペイン語を覚えられればタンゴの詞も分かるようになるんじゃないか、とか。東京は、まあ戻れないというわけでもなかったんですが、戻りたくなかったんですよね。 I:ブエノスもそうですよね。都市ではあるけれども、東京よりはゆっくりと時間が使えますよね。 A:そうですよね、タクシーなんかも安いですからね。時間がとれるというのは、音楽家にとってはとても重要だと思います。 T:でも、いきなり行って伝手とかあるものなんですか? A:普通はあっていくものだと思うんですけれど、私の場合は本当にいきなり行ってしまったもので、下調べとかが全然足りなくて。取り敢えずはホームステイ先だけを決めて行って、そこで暮らしている間に言葉を覚えて、それから先生に当たったりしたんですよね。だから、伝手もない分、普通よりは時間がかかってしまいました。 * * * * * T:ブエノスアイレスは、生活はしやすい所なんですか? A:「南米のヨーロッパ」なんていわれているぐらいですから、すごく暮らしやすいです。本当に都市だし、文化的なものは沢山あるし、他の南米諸国よりも便利なんですよね。ハリウッドの映画が来るのなんかもすごく早くて、日本よりも早いです。でも、アルゼンチン全てがそうなのではなくて、ブエノスだけがそうなんです。アルゼンチン自体はすごく自然が多くて T:アルゼンチンは一度経済破綻しているじゃないですか。その影響とかはないのですか? A:でも一説によると、10年に一回は経済破綻するから、繰り返すからとかいって(笑)。 T:破綻馴れしてるんだ(笑)。 A:だから10年に1回、皆が文句を言って、でも「また少し経てば上向くから」と頑張って、それを繰り返している民族なんじゃないでしょうか(笑)。 I:そんな感じだよねえ(笑)。 A:そうそう。聞いた話ですが、破綻した時に土地を買うでしょ。それで今、土地の値段があがっているんですよ。でも、またあと7年ぐらいいしたら破綻するんだから、その時に買わなかったという後悔は全くいらないんじゃないかと。アルゼンチン以外の国の人が言っていることです(笑)。経済破綻は、住んでいる人にとってみれば本当に大変だと思いますけどね。一時的にせよ、貧しい地域というのは大きくなりますし、経済格差も出来ますし。 T:なにかの本で読んだんですけど、それでタンゴの有名なお店がクローズしてしまったりしたそうですが。 A:ああ、したそうですよ。すごくにぎやかな通りがあるんですが、そこにある色々なお店が閉まってしまって、夜なんかも開いているお店が少なくなって、人が外に出なくなってしまうんですよね。それで観光客までも来なくなってしまう。それで観光客用の店なんかも減って、あるいは一時的に閉店になってしまって、タンゴのお店も閉店して。 * * * * * A:なんでタンゴが好きなのかなあ。情熱的だからなのかなあ。今はなんというか、(ブエノスアイレスという)町と一体化しちゃうんですよね。思い出してしまうんですよ。退廃的というか、内省的というか。別に退廃的な町というわけでもないんですけど… I:また、そういうふうに言うのが好きな人たちだよね。「こうんな運命を背負って生まれてきてしまった」みたいに言うのが好きな人たち、みたいな感じで。タンゴの歌詞とかにもそんな感じのものはあるし。 A:(笑)そうそう。 T:僕は喜多君(* 喜多直毅、タンゴの若手ヴァイオリニストとして有名)ともたまたま仲が良いという事もあって、ヴァイオリンで特に分かりやすく感じるんですけど、やはり「今まで知っている音楽」と全く違うでしょ?例えば音の出し方ひとつでも全く違うじゃないですか。特に生演奏を観たりするとそれは分かりやすいと思うんですけど、CDとかを何となく聞き流してしまうと、そのあたりは分かり難いと思うんですよ。それはピアノとかでも違いますよね? A:そうですね、クラシックとの違いを分かりやすく言うと、きたなく弾くのを好むんですよね、タンゴって。だから、左手のベースラインっていうのも、ふたつの音を弾いてしまうというのも可能であるし、あるいは敢えてそう弾いたりもしますし。私の先生にも、土着的にというか、泥臭くというか、「きたなく弾け」という事を強く言われましたね。それは、タンゴの底辺に流れていると思いますね。 I:タンゴとジャズの違いをレデスマ(Nicolas Ledesma:タンゴ・ピアニスト。青木菜穂子の師匠でもある)が「ジャズは「楽しくなろう」とか積極的なものがあるが、タンゴはブエノスという町がスペインやイタリアから来た人ばかりで、いつでも「ここが故郷ではない」という事で、遠くへの想いなどを持っているから、どうしても悲しい思いが底辺に流れる」というような事を言っていたそうです。 A:結局、昔はみな移民で来ているから、アイデンティティが無かったんですよね。また、戦いの姿勢というか、移民として来ていて、そこで認めてもらう為の戦いというか、そういった戦闘的な部分もあると思います。タンゴにも色々なスタイルがあって、多様化もしてきていると思います。 I:世界を見ても、ヨーロッパでもタンゴは盛んですしね。 K:そういった文化的なキーワードとしてタンゴを捉えているのですか?例えば、タンゴというものがブエノスアイレスに直結していて、そこでの生活であったり文化的背景であったりの上に成り立っているものとして捉え、その上で演奏をしていらっしゃるのでしょうか? A:今は完全にそうですね、前はそう考えてはいなかったのですけれど。音だけというより、トータルなものとして。私の意識は「目指す音楽があって、自分の音楽をやっている」という所まではまだ行ってないんですよ。いまの正直なところとしては、タンゴという音楽が好きで、「タンゴをやりたい」とか「タンゴを勉強したい」とかいう所だと思うんです。私がタンゴに魅かれてブエノスに行って、またそこで素晴しい体験をして。だから私を通してブエノスとかタンゴとか(の素晴しさ)を感じてくれたら良いな、と思うんです。「自分が目指すところのもの」とか、そういったものはこれから演奏していくに従って見据えられるようになれれば良いなと思うんですが、今は素直にブエノスが好きで、その上でタンゴを演奏できれば良いと思っています。 K:であるとしたら、そこまで青木菜穂子を傾倒させてしまったブエノスアイレスの魅力とは、簡単に云うと何ですか? A:ええと、究極的には良い人に会ってしまったからということに尽きると思います。結局、どこの国にしても、どれぐらい自分と相性の良い人に会えたかとか、おいしい食べ物があったかとか、そういった基準だと思うんですよ。その国を好きになれた人というのはそこで良い人に出会えた人で、その国が好きになれなかった人というのは、良い人に出会えなかった人だと思うんですよ。 K:「軍事政権」って、対アイルランドとのフォークランド紛争の事ですか? A:その紛争終結まで約30年間続いたものです。クーデターや不正選挙、そして軍の独裁政治の名のもとに、ひどい人権侵害(*1976〜83年)があったりして、不安定な政治状態だったそうです。それで、先生であったりミュージシャンであったりがかなり亡命しました。それで、「息子が帰ってこない、せめて孫だけでも返せ」という感じでおばあちゃんとかが今も町を行進してたりします、「こんなに行方不明が多いが、おかしいじゃないか」という事を国に提示する為に。一緒に住んでいたベアトリスなんて人はそういうのを目の当たりにしてきた人で。そういった意味で、彼女の人生観に影響を受けたと思います。 K:それは俗に云う所の「ミュージシャンシップ」、あるいはそれに近しいもののことですか? A:そういった事を、言葉にしないで教えてくれていたような気がしています。もしかすると「彼はこういう風にしていたのだろうな」というのを私が勝手に見ていただけなのかも知れませんが。 I:そうですね。青木さんは帰ってきてから、音楽だけではなく人間も変わったと思いますよ。前はもう少し大人しくて消極的なイメージがあったんですが、「自分」という芯がドーンと通ったというか。 T:でも、そもそも引っ込み思案だったら日本からブエノスになんて行けないでしょう。行ったという時点で既に凄いというか(笑)。 K:そうですよね、ダイナミックですよね。 A:ブエノスで一緒にやっていたミュージシャンの年齢が凄く若かったんですよ。私と同じぐらい、あるいはその下だったり。エネルギーを持っているんですよね。こういうものをやりたいとか、主張があるというミュージシャンが多かったです。でも私がいたオルケスタ(オーケストラ)は古いタンゴの形を重要視するというか、古いタンゴを吸収するように指導する所だったので、形としては古典をやっていたんですよ。50年代をやって、60年代をやって、80年代をやってというように、タンゴのスタイルを吸収していくという形で。でも、演奏している人は若い人だったので、どんどん新しいものが入り込んでいくので自然とモダン化していくんですよ。また、私にもモダン化していきたいという気持ちがありましたし。 K:なるほど、ご自身をピアニストの他にアレンジャーと語る所がその辺りにあるのですね。 A:今後は、自分のトリオあるいはカルテット等の編成で、3〜4ヶ月に1度ぐらい好きなタンゴ、こだわったライブが出来たらいいと思っています。あ、そうそう、私のCDに参加している人達はスゴイ人たちで、向こうでは超一流なんです、聴く人が聴けば分かると思うんですけど。彼らの為にもその辺りは宣伝しておいて下さいね(笑)。 (2005年5月4日、ヤマハ銀座インストアライブ後、銀座にて) 《青木菜穂子 ディスコグラフィー》 |
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